『侠客寡婦物語』     

明治四十二年六月「報知新聞」静岡版に連載より

  〈十五〉海軍の定宿
 そのうちに軍艦がどんどん入ってきます。すると、その艦長はじめ大勢の士官たちが、「次郎長親分はいるかいるか」と言っては家をひいきにして下さいますので、ほとんど海軍の定宿になって、また県の知事さん(注1)でも、また弁護士をしていらっしゃる、そのころ静岡の裁判長をなされた安原吉正さんでも、このほかの方々でも、よくおいで下さったから今でも皆お知り合いになっています。
 今中将かになっておありなさる向山さんでも、中将の出羽さんでも、艦長などしておられる方はこのころ、お馴染みで承知しておりまする。
 この間、出羽さんがここへ上陸の時なんかは、「次郎長の家がわからなくなった」とおっしゃられたとか申しますが、昔の変わった家のふうだから前を通ってもお見落としになったんでございましょう。

 典淡寡慾(てんたんかよく) こんなに繁盛します中で、長五郎は何一ついたしません。お客さんがいっぱいたてこんじゃ自分の居どころがなくなるもんだから、
「おれが涼しいところにいようするのに、いどころがなくなっちゃった」と申しちゃあ、もとの懲役場が静岡の井の宮に移ったあとの向島の広場へ参り桑を作る、栗を植える、それで筒袖を着て耕作するくらいがおの人の仕事で、またそうでもしなくちゃ、家の商売が立ちゆかないのでございます。
 こんなに商売が繁盛しますのに、あの人が居るばかりで何日でも儲かっていません。と申しますのは、長五郎が宅におりますと、
「親分家かね」と申しちゃ人がよく尋ねてきますと、誰どのがお出でになっても同じ待遇をしますから、いろんな人が遠方からきちゃ、
「親分に是非一度逢ってよいたいもんだ」などという人にどんどん馳走したり、何か記念になるものなど言われますと、何でも惜しげなく興えrというふうで、また泊まって銭のない客ですと、『ちょっと親分に・・・』ときっとくるでしょう。
そうしちゃ、実はこれこれで困るとか何とかでも言われようものなら、
「ああ、ええとも、ええとも」といったような調子でいくらみんなが汗になって稼いでもたまたないでしょう。こうして、
「今日は長五郎いませんですがね」 と言いましても、
「それじゃ帰るまでまとう」
なんていう客が時々あって、大変へこまされました。 

注1 静岡県初代県知事の関口隆吉のこと。旧幕臣であり、博人一斉刈込み   の時井之宮監獄に収容されていた次郎長を釈放したのも彼である。
   息子は『広辞苑』の編者の新村出(いずる)で、父隆吉の死後、
   葬儀等の相談に次郎長の居る末広を訪ねている。
関口隆吉に関しては、静岡異才列伝でも紹介しています。

注2 向山慎吉
   日本海軍軍人 海軍中将。 父向山黄村は幕臣(目付)、維新後静岡学問所頭取。
    慎吉は日清戦争に従軍。1894(明治27)年9月17日 黄海海戦。
   当時、聯合艦隊旗艦「松島」副長。
   竹敷要港部司令官
 注3 出羽重遠 1855〜1930(昭5)
   岩手県(会津)出身 会津藩士・出羽重信の長男
    戊辰戦争では白虎隊に編入、城中に止まっ た。
    日露戦争に従軍し、当時、第1艦隊第3戦隊 
      司令官 海軍少将
皇族・薩摩閥以外で最初の海軍大将
会津出身では初の大将

 その他、武勇談を聞きに次郎長を訪ねた軍人の代表格  小笠原長生に関してはこちら。そして広瀬武夫に関してはこちらにて解説



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